
朝礼は8時15分に始まる。高橋金属工業の40人の社員が、油の匂いが染みついた作業場に並ぶ。京都の冬の朝は底冷えがするが、工場の中は機械の余熱でほんのり温かい。
社長の高橋誠が、前に立った。38歳。先代の背中を見て育ち、大学を出てすぐこの工場に入り、旋盤の前で指の皮を何度も剥きながら現場を覚えた男だ。
「来月から、うちにAIを入れます」
40人の視線が、一斉に誠に集まった。
後ろの壁に腕を組んでもたれていた会長——先代社長の高橋義雄が、眉ひとつ動かさなかった。68歳。この工場を町工場から売上8億円の企業に育て上げた男だ。「計算機に何が分かる」が口癖で、いまだにスマートフォンすら使わない。
朝礼が終わると、誠のもとに誰も来なかった。いつもなら「社長、あの件ですが」と声をかけてくる製造部長も、この日だけは目を合わせずに持ち場に戻った。
AI研修の日が来た。
外部から講師を呼び、会議室にプロジェクターを設置した。40人全員を入れることはできないから、まずは管理職と若手の代表者15人で始めることにした。
誠が選んだ若手の一人に、入社3年目の川村という女性社員がいた。工学部出身で、検査工程の改善を何度か提案してきた社員だ。ただ、現場では「理屈っぽい」と少し距離を置かれているところがあった。
研修が始まると、ベテランたちの困惑は明白だった。製造部長の田中が、腕を組んだまま小声で隣の課長にささやく。「こんなもん、現場の段取りが分かるわけないだろ」
講師がAIに見積もりの条件を入力し、過去の類似案件から推奨加工条件を出してみせた。画面に表示された数値を見て、田中が首をかしげた。「この条件じゃ、SUS304は削れんぞ」
当然だ。データベースに入っている情報は汎用的なものに過ぎない。30年この素材を削ってきた職人の手の感覚を、既成のシステムがそのまま再現できるわけがない。
だが、川村だけが目を輝かせていた。
「これ、うちの過去データを入れたら、全然違う結果になりますよね」
その一言で、空気が少し変わった。
誠は、会長を口説くのに3週間かかった。
「親父の判断基準を、AIに覚えさせたい」
義雄は、最初は取り合わなかった。黙って工場を見回り、いつものように検品の最終チェックだけを淡々とこなしていた。
誠が粘った。
「親父が引退したら、あの判断は誰がやるんだ。製造部長にも、俺にも、まだできない。親父の頭の中にしかないものが、このままだと消える」
義雄が、初めて立ち止まった。
3日後の夕方、義雄が工場に残っていた。誠が様子を見に行くと、会議室のテーブルに川村が座っていて、義雄の話をノートに書き取っていた。
「SUS304の薄板、0.8ミリ以下はな。カタログ通りの切削速度で行くとバリが出る。うちでは送り速度を15パーセント落として、その代わりにクーラントの圧を上げる。これは30年前に、さる仕事で3ロット分をダメにして覚えたことだ」
義雄が、自分の知識を言葉にしていた。
誠は、廊下からその姿を見ていた。親父が自分の技術を「教える」場面を見るのは、実は初めてだった。いつも「見て覚えろ」だった。聞けば「そんなことも分からんのか」と返された。それが、川村の前では違った。
「AIに教えるため」という名目が、義雄から余計なプライドを外したのかもしれない。人に教えるのではなく、機械に記録を残すだけだ。そう思えば、弱みを見せることにはならない。
川村は2ヶ月かけて、義雄の判断基準を200項目以上記録した。素材ごとの加工条件の微調整。外注先の品質のクセ。見積もり段階で断るべき案件の見分け方。受注すべきかどうかの感覚的な判断基準まで。
「こんなに言語化されたの、初めてです」と川村が言ったとき、義雄は照れたように鼻を鳴らしただけだった。
AIが稼働し始めて2ヶ月が経った頃、義雄が会議室に現れた。
「あれを見せろ」
誠が、直近の受注案件に対するAIの分析結果を画面に映した。利益率の予測、納期リスクの評価、過去の類似案件との比較。そして、その判断ロジックの中に「会長の経験則データベース」と表示されている。
義雄が画面をじっと見ていた。
「この案件、AIは受けるなと言うとるのか」
「利益率が基準値を下回るのと、納期がタイトで品質リスクが高い、と出ています」
「根拠は何や」
「親父が教えてくれた、断る案件の条件に3つ該当しています。素材の特殊性、ロットの小ささ、そして先方の検査基準の厳しさ」
義雄が、静かに言った。
「なるほどな」
誠は、その「なるほどな」の重さを、あとになって理解した。父が認めたのはAIではない。自分が30年かけて積み上げたものが、ちゃんと残っているという事実に対して、頷いたのだ。
それから半年が過ぎた、ある土曜の朝のことだ。
誠が早めに工場に来ると、会長室に明かりがついていた。まだ誰も出社していない時間だ。
ドアの隙間から覗くと、義雄がタブレットに向かって何かを話しかけていた。
「この取引先な、昔は品質にうるさかったが、最近は納期のことばかり言うとる。経営が苦しいんやろ。値下げの相談が来るかもしれん」
画面には、音声入力されたテキストが並んでいた。義雄は、自分の気づきや判断をAIに記録し続けていた。誰に言われたわけでもなく。
誠は、その場を離れた。声をかけることはしなかった。
事務所に戻り、コーヒーを淹れながら思った。
親父は、AIを受け入れたのではない。自分の経験が消えずに済む方法を、見つけたのだ。
70歳を前にした技術者が、タブレットに向かって独り言のように知識を語る。それを後から若い社員たちが読み、加工条件に反映し、見積もりの判断に使う。親父の手は止まっても、親父の目は残る。
あの日、朝礼で「AIを入れます」と言ったとき、本当は怖かった。親父に否定されることが、ではない。親父が築いたものを、自分が壊してしまうことが怖かった。
結果的に起きたのは、逆だった。
AIは、先代が30年かけて築いたものを壊すのではなく、残す道具になった。
会長室の明かりを背に、誠はコーヒーを口に運んだ。少し冷めていたが、悪くない味だった。
※本記事は短編小説です。筆者の経営支援・研修経験に基づき、事業承継とAI導入のリアルな現場を物語として再構成しています。登場人物・企業は架空です。
山本高資|合同会社 才有る者の楽園 代表
経営支援・AI研修の現場から、経営者のリアルな日常と思索を綴ります。
▶ サービスについてのお問い合わせ: お問い合わせページ
